子どもの頃、毎年8月6日が怖かった。
平和学習のトラウマ
祖母の戦争体験談
八幡空襲(やはたくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1944年6月16日未明、アメリカ陸軍航空軍第58爆撃団の戦略爆撃機B-29が行った初めての日本本土空襲。
八幡市は、1944年8月20日に中国から飛来したB-29によって2度目の空襲を受け、さらに翌1945年8月8日の3度目の空襲ではマリアナ諸島基地発のB-29が焼夷弾爆撃を行い、罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸 死傷者は約2,500人の壊滅的な被害を被っている。(ウィキペディアより抜粋・編集)
八幡市は、1944年8月20日に中国から飛来したB-29によって2度目の空襲を受け、さらに翌1945年8月8日の3度目の空襲ではマリアナ諸島基地発のB-29が焼夷弾爆撃を行い、罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸 死傷者は約2,500人の壊滅的な被害を被っている。(ウィキペディアより抜粋・編集)
その時の様子はまるで雨のように焼夷弾が空から降り、辺りは一面炎に。
祖母は子どもを連れながら屋根から屋根へと飛び移りどうにか逃げたが、生後1歳くらいだった娘は命を落としてしまう。
娘を火葬する前夜は外で抱っこしながら一緒に眠ったという。
この話は僕が小学生高学年の頃に祖母から聞いたのだが、うちの母もその亡くなった子どものことを初めて聞かされたらしく驚いていたのをよく覚えている。
それ程まで長年言わなかった、いや言えなかったということを思うと、今でもとても考えさせられる内容である。
因みに、その3度目の空襲の影響で翌朝の8月9日の原爆が長崎に向かったと言われているが(諸説あり)、そのことも祖母は悔やんでいた。
ただ、現実に北九州に原爆が落ちていた場合、祖母の生活地から考えて即死だと思われるので、僕としては複雑な心境でその話をいつも聞いていた。
そして今の子どもたちへ…
※母方の祖母は大正11年6月生まれ。
例えどんな理由があろうとも、国家レベルの殺し合いである戦争は絶対にダメ。
祖母がいつも言っていたその言葉と意味。
それを今からの時代の子どもたちに語り継いでいくことが大切だろうな、と最近よく思います。
つい最近2度目の平和学習を受けた次女と色んな話をしたのでちょっと書いてみました。
真面目なお話でしたが、ここまで読んで頂きありがとうございました。
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